思弁的実在論とは、現代哲学の運動の一つで、相関主義と呼ばれる人間と世界の関係性に基づく哲学に対抗して、人間や言語を介さずに存在する実在を探求しようとする立場でしょうか。
カント以降の哲学が人間の認識や感性に依存した実在論を展開してきたことを批判し、人間が存在しなくても成り立つ実在論を提唱しました。
これによって、人間中心的な視点を超えて、より広い視野で世界を考えることができるようになることや、宗教や神学などの分野との対話が可能になることなどが挙げられます。
それでは思考してみましょう
思弁的実在論という言葉の意味を見てみます。
ここでいう「思弁」とは、「推測」や「想像」ではなく、「理性」や「理論」を意味していると解釈します。
整理すると、思弁的実在論とは、「理性的に実在を考える理論」ということでしょうか。
では、「実在」とは何でしょうか?「実在」とは、「存在するもの」という意味ですが、ここで重要なのは、「人間の認識や感覚から独立して存在するもの」ということです。
まとめると、思弁的実在論とは、「人間から独立した何かを理性的に考える」ということです。
何いってんだお前!?
なぜそんなことを考える必要があるのでしょうか?
そもそも認識や感覚を利用せずにどうやって存在を捉えるのでしょうか?
なぜ私たちは認識や感覚を利用することで存在を捉えることができているのでしょうか?
それは、現代哲学が「相関主義」という考え方に支配されているからかもしれません。
「相関主義」とは、「人間と世界の関係」を重視する考え方でしょうか。
相関主義によれば、「人間は世界なしに存在できず、また世界も人間なしに存在できない」ということになるでしょうか…
しかし、これでは、「人間から独立した存在」は考えられないですね。
まあ当たり前やんっていう…
相関主義とは
相関主義は、18世紀のドイツの哲学者カントに始まるでしょうか。
カントは、「人間は世界をそのまま認識できない」と主張しました。人間は世界を「時間」と「空間」という形式で捉えるからです。
しかし「時間」と「空間」は人間の感覚や理性によって与えられたものであり、世界そのものではありません。
なぜならば、世界(実在)を人間の感覚や理性(時間と空間)で変換して捉えているからと言えるでしょうか。
外の情報(世界)を目、鼻、耳などの五感によって変換してやっと「空間」を認識できますよね?
「時間」もまた時計や空を見て認識しますよね?
つまり人間は五感に縛られるということになるでしょうか。
したがって、「時間」と「空間」を超えた世界(カントはこれを「物自体」と呼びました)は人間には分からないということになるでしょうか。
カント以降の哲学者たちは、カントの考え方を受け継ぎながら、さまざまな方向に発展させたと言えるでしょうか。
ざっと評価してみます…
例えば、ヘーゲルは、「人間と世界の関係」を「精神と自然の関係」として捉え、その関係が歴史的に変化していくことを強調したでしょうか。
マルクスは、「人間と世界の関係」を「生産と消費の関係」として捉え、その関係が社会的に変化していくことを強調したでしょうか
ニーチェは、「人間と世界の関係」を「力と意志の関係」として捉え、その関係が個人的に変化していくことを強調したでしょうか。
そして、20世紀に入ると、ハイデガー、サルトル、デリダ、フーコーなどの哲学者たちは、「人間と世界の関係」を「存在と言語の関係」として捉え、その関係が文化的に変化していくことを強調したでしょうか。
以前の哲学者たちは、それぞれ異なる視点から「人間と世界の関係」を考察しましたが、共通しているのは、「人間から独立した存在」には触れることができていないという点でしょうか。
彼らは、「人間から独立した存在」を模索こそしたものの「不可能」や「無意味」や「危険」などと切り捨てる人も居たでしょうか。
ポジティブに表現するならば、人間という肉袋に縛られていることを認めることで、世界と向き合うことができているといえるでしょうか。
しかし、思弁的実在論の哲学者たちは、このような態度に異議を唱えます。彼らは、「人間から独立した存在」は「可能」であり、「意味」があり、現実的に「必要」であると主張できます。
そして、「人間から独立した存在」を理性的に考えることで、新しい形而上学(あるいは実在論)を構築しようと試みます。
人間全ての認識を主観で区切った場合、人間から独立した存在を解釈することで初めて客観を得られるのではないでしょうか?
思弁的実在論の歴史
思弁的実在論の運動は、ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジで2007年4月に行われた学術懐疑に端を発します。
このイベントでは、4人の若手哲学者がそれぞれ自分の思想を発表しました。
彼らはレイ・ブラシエ(Ray Brassier)、イアン・ハミルトン・グラント(Iain Hamilton Grant)、グレアム・ハーマン(Graham Harman)、カンタン・メイヤスー(Quentin Meillassoux)という名前で知られています。
彼らはそれぞれ異なる方法や目標で思弁的実在論を展開しましたが、共通しているのは、「相関主義」に対する批判でした。
この記事ではまず、レイ・ブラシエの思想を評価していきましょうか。
始めましょう。
レイ・ブラシエ
レイ・ブラシエは、フランスの哲学者アラン・バディウ(Alain Badiou)とフランソワ・ラルエル(François Laruelle)の影響を受けた思弁的実在論の哲学者です。
彼の思想を「ニヒリズム的実在論」と評価できるでしょうか。彼は、「人間から独立した存在」を「ニヒル(nihil)」と呼びます。
ニヒルとは、「無」や「虚無」や「何も無い」などの意味を持つラテン語です。
彼は、ニヒルが実在することを証明しようとします。
そして、ニヒルが実在することが分かれば、人間の存在や意識や価値などはすべてニヒルによって消滅することになります。
彼は、このような消滅を「消灭(extinction)」と呼びます。彼は、消灭が人間にとって最も重要な問題であると主張します。
しかしこの消灭というのはポジティブに捉えることができます。
水を分析してH2とOで作られている事がわかった場合、水は分解されて無になり、H2Oになったと言えるでしょうか?
その場合消灭によって水はH2Oになり、より具体的に成ったと思いませんか?
つまり水をニヒル化することでH2Oという新しい存在を創造できるということになるでしょうか。
ブラシエは、自分の思想を(Nihil Unbound: Enlightenment and Extinction, 2007)という本で詳しく説明しているでしょうか。
この本では、彼はまず、「相関主義」に対する批判を展開します。
「相関主義」は、カンタン・メイヤスーが提唱した用語で、上記で説明した通り「人間と世界の関係」を重視する考え方と捉えるならば、思弁的実在論によって、逆説的に「人間から独立した存在」について考えることを拒否できる哲学の姿勢と評価できるでしょうか。
では、実際に拒否してみましょう。
「相関主義」が「啓蒙主義」や「科学的実在論」や「自然主義」と対立できるでしょうか。
そして、「相関主義」が「人間中心主義」や「文化相対主義」や「神秘主義」と結びつくことを批判できるでしょうか。
こうすることでこれらの視点が人間から独立した視点であると考える基盤が視えてくるかもしれません。
次に、ブラシエは、「ニヒリズム的実在論」の基礎となる理論を提示します。彼は、バディウの数学的形而上学とラルエルの非哲学を組み合わせて、「ニヒル」という概念を定義しているでしょうか。
「ニヒル」とは、「無限に多様な存在の集合」として捉えられるものです。この集合には、「人間から独立した存在」だけでなく、「人間に依存した存在」も含まれます。
「人間に依存した存在」とは、「人間の意識や言語や文化などによって生み出された存在」として捉えられるでしょうか。
ブラシエは、「ニヒル」という集合が「一元的」であり、「不可分割」であり、「不可知」であることを主張しているでしょうか。
そして、「ニヒル」という集合が「実在する」という命題を「真理」と呼びます。
では実際に世界を消灭していきましょう。
ブラシエは、「ニヒリズム的実在論」の帰結としての「消灭」について考察します。
彼は、「消灭」という概念を科学的・歴史的・倫理的・美的などの観点から分析します。
「消灭」によってニヒルが訪れることを現実的に表現していきます。
彼は、「消灭」が科学的には「熱死」や「宇宙の終焉」などの現象として理解できることを示します。
「熱死」とは、「宇宙のエントロピーが最大になり、すべての物質やエネルギーが均一に分布する状態」のことでしょうか。
「宇宙の終焉」とは、「宇宙が無限に膨張し、すべての物質やエネルギーが消滅する状態」のことでしょうか。
つまり爆発ってことでしょうかね。
彼は、これらの現象が「ニヒル」の本質を表していることを主張します。
そして、これらの現象が「人間の存在や意識や価値などを否定すること」になることを認めます。
まあそりゃあ規模的に最初っから人間とかどうでもいい気がする……
歴史的には、「消灭」が「啓蒙主義」や「近代性」や「進歩」という概念と関係していることを論じます。
「啓蒙主義」とは、「理性や科学や自由などを重視する思想運動」のことでしょうか。
「近代性」とは、「啓蒙主義に基づいて社会や文化や政治などを変革するプロジェクト」のことでしょうか。
「進歩」とは、「近代性によって人間の生活や知識や幸福などが向上すること」のことでしょうか。
彼は、これらの概念が「人間中心主義」や「文化相対主義」や「神秘主義」と対立することを肯定します。
つまり、「人間中心主義」や「文化相対主義」や「神秘主義」は「進歩」によって「消灭」され、やがてニヒルへと繋がります。
さらにめちゃくちゃ簡単にまとめるならば、近代化の先は人間を否定することであり、人間を超えた視点を模索することに繋がります。
倫理的には、「消灭」が「人間の行動や判断や責任などに影響するかどうか」について考えます。
「倫理」とは、「善悪や正邪や価値などに関する思想や規範や行為」のことでしょうか。
彼は、「消灭」が「倫理」に対して無関心であることを示します。
厳密に定義するならば、倫理的に「消灭」を評価することはできても、「消灭」という概念自体は「倫理」に縛られない概念ということでしょうか。
例にするならば、「消灭」による絶滅を倫理的に悪だと評価することはできるが、「消灭」は絶滅した事実自体を記述しているので、善悪の評価は無関心であるといった概念でしょうか。
ある動物の種が絶滅したことを悪だと評価したところで、絶滅した事実は変わりありませんよね?「消灭」は絶滅した事実と絶滅したという事象自体を記述するものと言えるでしょうか。
「消灭」は、「人間から独立した存在」として捉えられるものであり、「人間から依存した存在」として捉えられるものではありません。
なので倫理に縛られる概念ではありません、倫理は倫理として、事実は事実として分けて評価していると言えるでしょうか?
倫理は人間中心の視点と言えます。
したがって、「消灭」は、「人間の行動や判断や責任などに影響しない」ということになります。
じゃあ最終的に落とし所はどこやねん!?
突き詰めた先に何が?真理がニヒル(何もない)ならば正しさは?
それは美ではないでしょうか?
美的に、「消灭」が「人間の感情や感性や想像力などに訴えるかどうか」について彼は記述していると感じます。。
「美的」とは、「美しいものや醜いものや感動的なものなどに関する感覚や判断や表現」のことです。
彼は、「消灭」が「美的」である可能性があることを示唆しているでしょうか。
「消灭」は、「人間から独立した存在」として捉えられるものであり、「人間から依存した存在」として捉えられるものではありません。
しかし、「消灭」は、「人間の感情や感性や想像力などに訴える可能性があるということになります。彼は、このような可能性を「美的ニヒリズム」と呼んでいるでしょうか。
「美的ニヒリズム」とは、「消灭」を「美しいものや醜いものや感動的なものなどとして感じたり評価したり表現したりすること」のことでしょうか。
彼は、「美的ニヒリズム」が「人間の存在や意識や価値などを否定すること」にならないことを主張します。
そして、「美的ニヒリズム」が「人間の存在や意識や価値などを超越すること」になることを示唆します。
ニヒルから美を感じることはニヒル=現実を恋し、現実を好きになることに繋がるのではないでしょうか?
正しさが無いならば、正しいから実行するのではなく、好きだから実行すると言えるかも知れませんね?
正しさや実在をニヒル化した先に待ってるのは 美=好み=嗜好 ということでしょうか?
以上が、ブラシエの「ニヒリズム的実在論」の概要です。彼の思想は、非常に挑戦的であり、議論を呼ぶものです。
彼は、人間の存在や意識や価値などを否定することを恐れません。
しかし、彼は、それらを否定することで、「ニヒル」という実在に近づくことができると考えます。
そして、彼は、「ニヒル」という実在に近づくことで、「消灭」という現象に対して新しい見方や感じ方や表現方ができると期待します。
自己の存在や意識や価値が確固たるものだと自覚するのであれば、それらの否定を恐れる必要はありませんよね?むしろ自己を改善するためにポジティブに受け入れることができるかもしれません。
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